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あらゆる角度から『魔法先生ネギま!』を斬る!!つもりのブログ、のはずだったが最近はその趣旨からかなりずれている。マンガ全般について扱っているつもりのブログ。でも「ネギま!」のことは忘れないブログ。
私は土日になるとよく友人たちと日帰り温泉に行きます。これまで実にいろんなところに行きました。宮城県白石市の鎌先温泉にある旅館の風呂なんかコンプリートしたぐらいです。大体どのくらいの頻度で行けば履歴書に「趣味:温泉巡り」と書けるのでしょうか。今までは「パソコン、ドライブ」ぐらいしか書いてなかったので(麻雀とは書きにくい)もう一項目ぐらい増やしたいところですね。


さて、いつの間にか複数部構成になっていた「ネギま!」の第一部が終わり一段落ついたところで、今までの物語の山場を改めて振り返ってみたいと思います。

最初に目を付けたのは麻帆良祭編です。これはもう超の言動があちこちで大きな論争の的になっていましたが、あまり事態が収集しきれていないまま時が経つにつれ論争が下火になっていったような感があります。どことなく腑に落ちないというか、消化不良というか、そんな感じがするのは私だけではないと思います。

麻帆良祭の一件は簡単に言えば、


・未来を変えようとする為に過去において全世界への魔法バレを画策した超
・それが必ずしも正しい行為なのか自分の中で踏ん切りがつかないネギ

・ネギに対して理屈っぽく助言をするゆえ吉



の3者が主な役割を果たす物語だったといえましょう。構図としては簡単なものです。

しかしその中身があまりにも濃厚すぎて「ここはこうなんじゃないか」「あれはああだったんじゃないか」と論争しているうちに段々と論点がぼやけてきたり、或いはついていけなくなったり。結果として有耶無耶になってしまった、そういう感じがします。

私も自身のブログでは積極的に超編の出来事は取り上げませんでしたし、今さらまた論争を始めたいとも思いません。私のおつむには少々難しいようでした。
ただ、はっきり言えることは一つだけあります。大義名分などは別として、超が執った手段は明らかに間違いだったということです。



<バタフライ効果>

超が過去にやってきた理由は、一言で言えば「未来を変えたい為」でした。具体的に未来で何があったのかは不明ですが、超をしてそうさせるに充分な理由があったのでしょう。そして未来を変える一環として「全世界への魔法バレ」があったわけです。

しかしここで超のまったく勘違いをしている点があります。全世界へ魔法の存在をバラしたところで超の望む未来に変わる保証がどこにもないという点ですね。

人生は何が起こるか想像がつきません。何がどこにどういう風に作用して結果どんなことが起こるのか、それは人知の及ぶところではありません。
何故なら人の行動は、水面に石を投げ込んだときに起こる円形の波のごとく周囲に波及していくからです。石を投げ入れたのは意図的にやったことでも、その後に起こった波はまったく本人の意図したことではありません。ゆえ吉が言っていたバタフライ効果とはこのことをいいます。

他の例えで言えば、龍宮が得意とする長距離のスナイプもいい例ですね。きちんと照準を合わせようとしても、ほんの僅かな手のブレなどが数百メートル先では数十センチものずれになることでしょう。

同様のことが超の行動にも言えるのです。未来で何がしかの惨禍があった。それを未然に防ぐために過去にやってきた。それまではいいでしょう(ゆえ吉が「人はどんなことがあってもそれを乗り越えていくものだ」とかいろいろ言っていましたが、それは別次元の話とします。あくまで超の行動・手段にだけ注目していきます)。

仮に超が全世界への魔法バレを成功させたとしても、その先に彼女が本当に望む未来は存在したのでしょうか。いくら科学が発達して、いろいろなことが予測可能になったとしても、相手が「人」であればその「人」が起こすことまでは予想はできないでしょう。科学は人間がつくり出したもの。人間が人間のことを完全に知らなければ到底科学力が及ぶ範囲ではないということです。

この点、超はそのことを知っての上で行動に出たのかどうか。あまりにも麻帆良祭で執った彼女の行動は荒療治というか、短絡的過ぎるといっても過言ではありません。世界樹が周期より1年早く発光することすら把握してなかったぐらいですから、そこまで考えての上だとは到底思えないですね。

天才・超鈴音に何があったというのでしょうか。何がそこまで超から冷静さを奪っていったのか・・・・・・それは物語が進むにつれて徐々に明らかになることでしょう。



<では本来どうするべきだったのか>

まとめると、超が執った手段の欠点は「全世界への魔法バレ=自分の望む未来になる」と性急に結論づけて行動に移したところにあります。唯一にして最大の欠点でもあります。
だから本来ならば自分の意図しない事象を極力発生させずに、時間をかけて少しずつ現在と自分の望む未来とを繋げていけるよう努力すべきでした。事態が良からぬ方向へ動き出そうものなら逐一軌道修正をかける。その途中で執るべき方法などいくらでもあります。もちろん一朝一夕でできることではありませんが、それが最善の方法でしょう。

何故超にそれができなかったのかというと、時間的な制限もあったでしょうが、最も大きかったのは人生経験の有無ではないでしょうか。天才といえどたかが14歳。知識はあってもそれをどのように活かすのかまでは考えが及ばなかった。
知識というものは、活かさなければそれは知らないのと同じことです。そして活かすのに必要となってくるのは経験です。経験値が知識を活かすTPOの把握へと繋がっていくのです。超にはそれが決定的に不足していたのでしょう。つまりは頭でっかちということですね。理論と実践は、違うものです。


<超とネギの相違点>

そんな超とは対極的に、着実にいろいろな経験をし、いろいろなことを考えて行動に移していたのがネギでした。魔法学校を卒業しただけの右も左も分からないような子供が突然先生となって生きていく。世の中には実にいろんな人がいて、その人たちと共に生きていくにはどうすればいいのか。どうやって先生として0の状態から信頼関係を構築していくのか。
ネギはいろんな生徒たちに揉まれたりいろんな戦いを通じて悩み、考え、成長していきました。ネギにとってそれは書物などからでは決して得られない貴重なものであったと思います。まだまだ子供っぽさが抜けていなかったり、デリカシーの面が不十分だったりしますが、ネギの成長具合については連載開始から現在に至るまで「ネギま!」を読んできた読者の方々もよく分かっているはずです。

超も一応はネギより年上ですから、それなりの経験値はあると思います。科学の知識、魔法の知識、知識という面ではネギより超のほうが勝っていたでしょう。
しかしどちらが中身的に上だったのかは、事の勝敗がそれを物語っているといえましょう。クラスの面々と思いがけず楽しい2年間を過ごしてしまったと述懐しているあたりも、それを「唯一の計算違い」「儚いもの」と切り捨ててしまったことも、超の弱さを如実に表していたと思います。それが彼女にとって本当に必要なものだったのではないでしょうか。


思えば麻帆良祭の超編は『経験の有無が雌雄を決した』。まさにその一言で表されるような戦いだったと思います。必ずしも勝者=正とは限りませんが、勝敗を決するものは何かということですね。赤松御大が描きたかったのはそういうことだったのではないかとも思う今日この頃です。




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フェルマータさんうたのCD? 感想>2人の声が重なっているところなんか、凄く気持ちよく聞けます^^そうですね、ホント癒される曲なんですよ、これ。>ナポリタンノソースが ナポリタンのソースが~♪(笑 今
2007/03/09(金) 07:48:06 | ネギズ
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2007/03/09(金) 22:45:59 | 楓の箱リロLive対戦日記
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